今日も最低な日を

下書きが何本も増えていく。公開すればいいものを、いちいちどうでもいい思索で下書き保存。全てが過剰過ぎて、過剰じゃないと人に届かないのに、私に届いた過剰さが、私がする過剰は私が落ち着かなくて、許せなくて、ずっと気持ちいい場所を探しているんだけど見つからなくて、これなんの話?作る場所いる場所帰る場所。

こうやって事実を湾曲して、私の本当からどんどん遠ざかっていく。誰もいない。これが気持ちいい。

一日死んでやった。一日潰してやった。もう立ち上がれないくらい。もう起き上がれないくらい。ヘロヘロで、くたくたで、死んでやった。

意味なんてない。死んだ方がマシ。

早く大人になりたい。もっとマシな文章が書ける大人に。

感情をぶつけることを、コンビニまでも歩けない身体。いらない言葉と言葉をつなげなくて済むように。大人になりたい。わからない気持ち。過剰だった。

ヒリヒリする。描けるとか描けそうとか、撮れるとか撮れそうとか、頭の中にある完璧を引っぺがしてくれる何か。行為を待ってたってしょうがない。私がわかっていること。

未来への希望が今の死亡に負ける。希望したことない。わかってる風の、あたかも私のすべてかと思える496文字は実はなんでもなくて、ただの指の運動でしかない。だから描かれていく文章もなんにでもよくて、そんな話本当に意味がなくなってしまう。私が描く意味がなくなってしまう。

誰かに教わる事が、誰かと話す事が本当に価値ある価値なのか

もうどうでもいいことばっか。どうでもいい

 

狂宴

何にもならないことが最高に楽しかった。ひたすら音楽に乗って、お酒飲んで、こんな祝狂祭が連日行われてると思うと、そのあまりの果てしなさと何にもならなさと輪廻転生を垣間見てワクワクした。もう隣に誰がいるかとか全部どうでも良かった。単純に不健康で、単純に健康。

 

細切れの夢

最近よく夢を見るんだけど、どうにも一つ一つの場面が細切れて起床時に全体像をあまり思い出す事ができない。今までは全体としてある程度脈絡のある(夢に脈絡があるというのもおかしな話だけど)まとまりのある夢しか見てこなかったような気がする。でもここ数日、数週間くらいはまるで脈絡のない、ぶつぶつと途切れる夢。途切れている間はなんとなく意識があるような無いような、境界で漂っている感じ。

夢診断でもそういうのってあるんだろうか。気が向いたら調べてみようと思う。

フロイトユングの心理学研究は興味があって新書や幾つかの本を読んだ事があるんだけど、これも、都度アウトプットを怠っていたのか、難しかったのか、あまり内容について言及できるレベルでも無い。書きながらもう一度勉強してみたい気もする。

 

呟く

文章が書ける時と書けない時。ここ一ヶ月ほど、ひきこもりに近い生活をしている。

人間関係や、その他諸々の挫折という原因はあったにせよ、もう初心はわからない。

だからひきこもる理由もなければ外に出る理由もない。ただ人生を使い潰し、全ては怠く、まったくもって無生産的である。それでもブログを始めたのは、まぁなんか色々あったんだろう。

ツイッターやインスタグラムに逐一自分の生活を晒すことが分からなかった。今日食べたご飯今日見た映画今日読んだ本今日遊んだゲーム、今日会った友人。今日行った場所。

それにどれくらいの承認欲求があってないのか、知らないけれど。呟きという行為がもう生活と切り離せないツイ廃はともかく。

少なからず、客観性をもって他人に自分というものを紹介する意図はあるんだろうか。

私はそれが苦手で、呟くときには必ず考えなくてはならない通るべき道で、見られているという自意識が過剰なんだろうけど、そんなことを思っていたら日常の通り過ぎていく事象があまりにも膨大で過剰で反応しきれずに手付かずになってしまった。

内向的な感情世界をもとに思索している節は思い当たるので、外からの刺激に鈍い部分は否定する事ができない。外でなにが起きていようが、自分の内側で起きている乱気流を捉えるのに一杯一杯だ。

これの弊害が挙げられるとすれば、なに一つ地に足つかないというところか。自分の感情なんて1分でも1時間でも変化し続けるのに、果たしてそんなものが捉えられるのか、捉えられたとて、もう次の瞬間にはいなくなっているものを。

だから必要なことは実生活に楔を打ち込んでいくことなんじゃないかと思う。一つ一つ起きたことに点を打っていく。自分の内的世界と違って、外の世界で起きたことは事実として少なくとも固定される。固定された木にしがみついて、なにが起きたのか、自分がどこにいたのか確認することが、一つの術なのではないだろうか。呟くとかブログを書くとか。

 

そこで変に他人を意識して内なる承認欲求を変な形で出す必要はなくて、あくまで自分のためにただ淡々と楔を打っていけばいいのだと思う。実生活がインターネット空間と同調することが過剰になりすぎるのも問題だが、今現代においてそれが切り離されすぎるのも一種の過剰さだと思う。特に私のような内向的な人間にとっては。実生活でなにが起きたのか理解するためのツールとしてSNSやブログは文明の利器だと思う。

ということを考えましたということです。

 

 

 

 

かぶせ

もう一生、誰のことも本当に愛する事ができないような気がしている。今までと同じように。

好きになることなんていくらでもある。でも愛することができたことなんてない。

本当に大事なのは自分?自分の外側?捨てられない自我。もう何度ここを通っただろう。

同じところを回り続けている。

変わらない自分をそれでも変わらせること、どうあれば人が変わったということになるのか?

私は私を変えるためになんの努力をすればいい?なんの努力をする必要がある?

考えてないくせに。

基本的に意味がない自己問答はとりまファック

 

どうしたら本当の気持ちが話せるだろう。

本心、こんなもの本心でもなんでもない。ただ思いつくままにキーボードを打つ指に感情を込めているだけだ。ゴミ捨て場だ。

そうしないと、

 

頭の中で他人を作り出す時、それはその相手について同情しているということになるのだろうか。

それとも、ただ私の自慰としての自己否定の材料になっているだけなのだろうか。

見るべきものが、これ以上にあるだろうか。見るべき景色、見るべき群像、見るべき相手。

今の私にはわからない。

孤独a

どうして誰かを求めずにはいられないのだろう。

一人になって久しく、こんな気持ちを抱いたような、それよりずっと前から抱えていたものが露呈したのか。

ずっと一人でよかった。一人で大丈夫だった。それは今も変わらない。

過干渉を嫌い、一人の時間にこだわり続けるのは私の性だろう。

きっと誰かに話を聞いてほしいから。だから書き始めたんだ。自分の周りに、私の話を聞いてくれるような、聞いてくれると見定められる人間がいなくなって(いつもの私の主観である)堪らなくなった。寂しいとか、そういうのじゃない。他者性をどこにも認められないと、一人で錆びて腐っていくような気がした。一人だけ時間に取り残されて。

でもこの社会ではそんな自由さえ認められない。なにかに急き立てられて、ついぞものを書き出した。ただの焦燥感。ここまで書いておいて、自分の本心なんてどこにもないような気がしている。

改めて見て見ても、なんて客観性のない、見るに耐えない文章なのだろう。それでもいいや。

見返すことに価値を置いていないんだろう。

私を構成するパーソナリティや個性と言われるもの、そんなものを認めると同時に、そんなものに自分は構成されていないと感じる。それがおいそれだって他人にベラベラと自分の具体的な経験を話したくない原因だと思う。

辛い事がたくさんあった。自分でも気づかないうちに傷ついていて、それに気付いたのは、ずっと後のことだった。