最近のこと
最近の出来事。
ブラックフライデーでケトルを買った。ガラス製で何のためにか通電中底が青く光るやつ。ちなみにハゴオギではない。なぜ水が沸いている最中に青く光るのか分からないけど、いい感じ。
ケトルを買ってから、朝ごはんを食べることも始めた。今まで節約とわざわざ用意するのが面倒で朝ごはんは抜いていた。けど起き抜けにお腹空くなぁと思うことが多かったのと、朝から体温を上げておくために温かい飲み物を飲みたかったので。ケトルを買ったことでわざわざやかんを火にかける手間が無くなったのでインスタントのスープと食パンで、ズボラながら朝ごはんを食べるという習慣を始めかけている。まだ一週間も経ってないが。
朝から温かい飲み物が飲めるということが地味に幸せだ。無印のインスタントのほうじ茶ラテも買ってきた。美味しい。
本を読んでいる。ベルクソンの「道徳と宗教の二つの源泉」(ちくま学芸文庫.2015)
読み始めたのは何故だったかな。大学の講義でたまたま道徳というテーマが被ったこと。
一つは仏文学の一冊から。一つは映画史から、その映画の仮構作用について。
この仮構作用というのが初耳で、なんのことを指しているのかわからなかったのと、虚構の力みたいなのを普段から考えてることで気になった。
道徳の基には神という存在があって(日本人の自分からすると少し実感に事欠けるものがあるが)神という存在を語るために虚構による作話機能が働く。じゃあそれが具体的にどう機能しているのか?どういう仕方で働いているのか?
序盤は脱構築的な話というか、個人の集団により構成される社会において、マジョリティが発生させる責務というのが果たして本当に正しい理に適っているのかというのを解説している。?正直読めているのか定かではないけれど。脱構築的な話ではないかと解釈している。
あとはJ.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」もずっと読みたくてようやく買ったけど積んだまま。
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自分がかなり感情的に物事を理解したりすることがわかってというか再確認でしか無いけど。
「理屈っぽい人」と「感情的な人」という2種類がいるとして、自分の中のバランスを変動させることってできるんだろうか。
つまり、もう少し理屈に寄ったものの考え方をしたいわけなんだけれども。
そもそも理屈とはなんぞや感情とはというところではあるのだけど。その2種類という乱暴極まりない分類の仕方とか
どうでもいいや。
ただ共感性が高いというのは事実。他人と会話する時も、相手の言った言葉そのものではなくて、そこに付随する原因となる感情だとか、それを言われた私と、それを言われた誰かだとかの感情を意識的にでも無意識的にでも読み過ぎて曲解するし疲労する。
だから感情の振り幅が自分と似ていたり、極端じゃ無い人が心地いいのかとか。
近親相姦について
自分のセクシャリティの基に近親相姦欲求というか、欲を基に色々派生している気がしている。近親相姦もののAVで興奮したし、道徳について考えている中で見たのだけど、AVのパケに「非道徳」とコピーされていてめちゃくちゃ笑った。それはそう。
ブログについて
ブログって嫌だなと思って、何が嫌かって、自己完結性なのかなとか。本当に、徹頭徹尾自分のためでしかなくて書いていて息が詰まる。他人のを見ていてもそれは感じる。その人の日常がそこにあるのはとてもいいことだけれど、全てにわたって輪が閉じているような、言葉にするのが難しい微妙な感情を抱く。現時点では感情整理のための自分のためのものでしか無いけれど、いつか外に向かってなにか書けたら、とか思っているのだろうか。本心がわからない。
そんなことどうでもいいのかもしれない。