むかしのはなし

一日にいったい何本ブログを書く事があるだろう。Twitterの字数制限がなくなった版という立ち位置なのでそれはTwitter的な脈絡のない文章を繰り広げてしまう。

 

ふと思った。昔の話をしよう。

小さい頃から私は気を遣う子供だった。子供ならではのわがままさや無邪気さも持ち合わせてはいただろう。今もそれらはなにひとつ捨て去る事ができていないと思っているのだが。

しかしそれ以上に、私の記憶に深く刻まれていて、ことあるごとに、或いはふとした瞬間に蘇ってくるのは気を遣っている情景なのだ。

気を遣うというのは、私のことを育ててくれた両親(特に母親)に対して、そして歳の近い喧嘩ばかりしていた兄と、他ならぬ自分自身だ。

まず子供ながらに、家庭の事情というものを異常なまでに気にしていたことを覚えている。

家庭の事情というのはつまり金銭的な事情だ。

事情というのは間違っているかもしれない。なぜかというと、それは事情ですらなかったから。今思い返してみれば。私は生まれてこの方、生活に困窮した経験はない。日本でどれくらい生活に困窮している家庭があるのか存じ上げないが、両親のおかげで幸いに、特別困窮した事がない。むしろ裕福といっても差し支えがないのではとさえ思う。

にもかかわらず。私は家計というものを異常に気にしていた。新しい新品の物を買ってもらうのにはそれなりに躊躇したし、どこか外食に出かける際などは、メニューから一番安い料理を選んでいた。家族で行くゲームセンターが苦手だった。UFOキャッチャーやクレーンゲームなど、取れるかわからない不確かなものにお金を注ぎ込むこと、それを楽しむ事ができなかった。旅行に行こうものなら、できるだけ遠慮して、お金のかからないようにしていた。

遊園地やテーマパークが苦手なのも、そこにいくと否応なく金を使うことを強制され、楽しむことを強制されるからだ。

 

今思い返してみれば、私はなぜあんなにも家計を気にしていたのかわからない。ただ、漠然としたお金を使うことへの恐怖心はあったのかもしれない。なにかが無くなっていくのである。

 

そして私は健康に対しても気を使っていた。今も引き続く心気症的な気質は昔からも自覚があった。病気が怖かった。

身体が弱く、病院の世話には何度もなっていた。知らないうちに、病院の負のエネルギーに侵食されていたのかもしれない。死ぬ事が怖かった。

その心気症的な気質には今も悩まされ続けている。

 

私という人間が一体どこから始まったのか、なにによって作られ、なにが捨て去られ、なにが今も連綿と続いているのか、また気が向いたら探ろうと思う。

リリィ

あまりにも辛気の毛が強過ぎて書く方もつらくなった。最近ハマってることについて書こうと思う。

リリイ・シュシュのすべて』(2001)は日本の映画監督岩井俊二氏の映画で、2001年に公開された。

内容は思春期の人間関係や、時期特有の雰囲気というか、こういうことを書くのが苦手だな、

実はハマっているのは映画の方ではなくて、「リリイ・シュシュ」だ。

映画内では架空のアーティスト「リリイ・シュシュ」が登場する。デビュー時のSalyuが演じているのだが、実際に曲があり、ミニアルバム『呼吸』も映画公開同時期に発売された。

映画内の登場人物は、このリリイ・シュシュというアーティストを熱狂的に(そこまで狂っているような描写はされていないが)支持しており、いじめや、辛い現実から救い出してくれるこの歌姫を崇拝している。掲示板も立ち上げ、『リリイホリック』と名付けられたその場所では、リリイを愛する者が匿名で書き込みをしている。この掲示板は現実世界でも存在しており、映画公開前からこのプロジェクトが掲示板を通して進行していたらしい。私はそれ以前のことをなにも知らないので詳しく言及することはできない。

岩井俊二氏の作品を全て見たわけではないが、2004年公開の「花とアリス」は私の好きな映画に入るほど、お気に入りの作品だ。他にも「リップヴァンウィンクルの花嫁」(2016)など。

リリイ・シュシュのすべて」や「リップヴァンウィンクルの花嫁」などは正直、映画としてはあまり好みではなかった。

ただ彼の世界観が好きだ。彼の目を通して見ている世界が好きだ。

そして、彼が生み出した「リリィ・シュシュ」という歌姫は、私の心を捉えた。

岩井俊二氏の映画は不思議だ。ふと何気ない時に、思い出す事がある。「リリイ・シュシュのすべて」も、ここ最近になって、ふと思い出したのだった。

 

彼女の歌声は、私の歌う声と共鳴した。歌を歌うために歌を聴いて、歌を歌う事で私は救われた。力強いのでもない。かといってか弱いわけでもない。映画で蒼井優演じる津田詩織が、映画終盤で飛ばして遊んでいたカイトのように、宙を舞うような、そんな歌声だ。

スピリチュアルポップと形容される彼女の歌は、まさに魂の奥深くに染み入るようで、バラバラになった心を繋ぎ止めてくれる。

こんなにも複雑な心の動きを、詞という言葉に込めて歌い上げてしまうなんて。本当に魔法だ。

私の言葉では、私の思っていることや考えていることのほんの少しでも形にする事ができない。わかるだろう。もっともっと、歌を聴いた時に起きる情動は、こんなものではなくて、言葉にできない、感覚なんだ。そしてもっと特別で、大事なものだ。なににも変え難い。愛しているんだ。

私も、これぐらい心を、思考を、形にする事ができたならきっと、もっと生きたいと思えるのだろう。錆び付いてしまった情動を動かしてくれるのは、きっと。

ここにいるのは窮屈で、辛い。

音楽があればこそ、

絶望から一夜明けて

取り止めもない昨日のどうしようもない状況から一夜明けた。気分は昨日とさほど大差ない。ただ今日は昼飯を秒で決めることができたので良かった。自分の今食べたいものがなんなのか、すぐにこれだと分かることがこんなにも嬉しい。

文章を書くということが本当に苦手だ。昨日も書いたと思うが。

結局あの後、強胃だと自負していたにもかかわらず安酒の9%なのですぐに酔っ払い、良い睡眠導入剤になったわけだが。

シラフである。

文章を書くということがこんなにも難しい。着地点を決めていないからだろう。ここでも客観性のなさが気になる。他の人は、まずテーマを決めて、そこから着地点を決めてブログというものを認めていくのだろうが、それができるようになるのはもう少し後だと思う。

それよりも切実に、それよりももっと、逼迫している。

居場所というものをついぞ確立することができなかった。今生きている生活圏内のどこにも見出すことができない。どこにいても落ち着かない。他人との摩擦に耐えられず、引きこもっているが、引きこもることだって別にしたくてしているわけじゃない。他にやりたいことがあれば迷わずそれをやるだろう。引きこもりたいわけでもなく、他にやりたいことがない。

わかるだろうか。お昼ご飯を決めることができただけで喜ぶ人間が、いったい人生のなにを決められるというのだろうか。例えば、この部屋は私が決めたもので溢れている。例えば、この部屋は私ではない誰かが決めたもので溢れている。

どうでも良い文章。

 

なにをしても前に進んでいる感覚がなく、つまりなにもしていないのだけど、前に進まないといけないというマインドセット、でも世界からは取り残されていく。

当たり前に他の人がしていることができない。

 

コミュニケーションの仕方がわからない。いや、本当はわかるはずなのに、そうじゃなくて、自分というものをどのように位置付けて、相手と話せば良いかわからない。要は、どう話すのかを選ぶことができない。それは、技術の問題でもあるし、単に相性の問題でもあるし、気分の問題でもある。不確定要素があまりにも多すぎる。

取り止めがなさすぎる。問題が抽象的すぎる。

答えなんてそもそもないのに。考えてもどうしようもないことについて考えてしまう。

もっと現実に、今実際に起きていることに目を向けなければ。

 

一つのミスに囚われ過ぎている。ひとつなのだろうか。今まで積み重ねてきた小さな問題が

 

また、話が抽象的すぎる。こんなこと考えても仕方ない。

 

誰か私の心中お察ししてくれ

タイトル通り、私の心中をお察ししてくれ。それくらい酷い状況なんだ。

どのくらい酷いかというと、2、3時間街を血迷ったように歩き回り、夕飯を決めあぐねた結果手元に残ったのは2缶の酒とおつまみひとつだけ。今日の夕飯である。そして人生は愚か、夕飯すら決めることのできない自分自身が惨め極まりなく、今すぐにでも土中に埋まりたい私は1缶目を風呂場で開けたのだった。

がしかし、私の胃は熱いシャワーを浴びながら酒を飲んで潰れるほどやわじゃない。むしろ強胃なので簡単に酔うことすら叶わない。到底2缶では足りないだろう。今飲んでいるのが空いたらまたコンビニに行くハメになるだろうか。

そしてここまで書いて気づくだろう。なぜこんなどうしようもない状況に陥っているのか。いままで長ったらしく書いたこれは状況であって原因ではない。そもそも原因が至極簡単に書けるものならこのような状況には陥っていないのである。そして書くつもりもない。後半で気が変わって書くかもしれない。後半だと???お前は前中後編までこのこれを書き連ねるつもりなのか?????どんな叙事詩だよ??アメリカンドラマもびっくりのシーズン80くらい。

 

自分の考えを言葉にすること、文章にすることが一級苦手だ。誰が見るかもわからない、誰も見ないだろ。こんな文章のどこに、客観的視点をもって書けというのか。主観でしかないのである。読み手のことなんて考えていられない。考えているような悠長さがあったら私はまたこれを下書きにぶち込んでしまう。

そんな三文芝居はもう本当にごめんだ。主観でいい。そもそも人の気持ちなんて考えられた試しがない。そろそろ内容の薄っぺらさが堪らなくなってきた。

 

今日は本当にひどい一日だった。

いいことが一つとしてなかったように思う。ただただ悪戯に街をほっつき回り、自分の大事な何かを散々セルフぶん殴りした挙句、孤独を深め、加速させ、得られたものといえば、自分の孤独とは結局自分自身にしかどうすることもできないということ、ただそれだけだ。

楽しそうな人が苦手だった。ポジティブな人はポジティブな人を求める。ネガティブな人はネガティブな人を求めない。当然だろう。今自分が死んでいるのに、

 

いいや。どうでもいい。

私はなにも選べなかった。なに一つとして。

自分のことなんて。

あろうことか薬を酒で飲んでしまった。本当に失態だ。こういうことってよくあるよね。これやったら明らかに失敗だろう。明らかにこれはミスだろうとわかっていても体が勝手に動いてしまう。こんなんばっかだ。ごめんな。本当に。

申し訳ない。

謝ることしか、私にはできないよ。ごめん。

ごめんよ。