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「誰もいない」を人生で初めて経験しているかもしれない。
昔は今よりももっと言葉にするのが下手で、というかそれが下手だとか苦手だとかそういうことにそもそも気づいていなかったのだけど。気づいたのはほんとここ数年の話で。
だから自分の悩みを言葉にするとか、そういうのってもっとどうでもいいレベルで行われていた、と思う。
考えてすらいなかったように思う。「考える」ことができてると明確に認識したのもここ数年。2年とか。そのレベル。
昔の自分に対する後悔は正直いくらでも吐けるから、べつにそういうんでなくて。
ここ数日、調子が俄然悪い。1日のうちで起きている時間が本当に数時間しかない。まぁ環境のせいもあると思う。もとからこういう人間だったと言えばそうだし。でもこれがこの先もずっと続くと考えると、もう私にできることなんて本当になにひとつないんじゃないかという気分になってくる。ずっと自分の精神を漠然とした実体の見えない何かに明け渡している、そういう感じ。それがこの部屋なのか、街なのか、場所によるものなのか。わからないけど。
頭が痛い。SNSの治安が悪化したのも理由の一つじゃないか。
書いてて疲れてきた。頭が痛い。
from 2022 to 2023
今日で一年が終わる。2022年は振り返ることもできないくらい、色々なことが起きていたし、何も起きていなかった。と書いたけど起きていたな。起きてしかいなかった。
気怠さに打ちひしがれていたことすら、這って玄関へ行き必死の思いで外に出たことすら、たった一人であえてする空回りほど楽しいことはなかったり。今思い返せば、ここまで浮き沈みの激しい一年は初めてだった気がする。ブログを始めたのも今年だ。文章を書かないと、自分の中のものをぶちまけないと、晒し上げないとやっていられなかった。たとえそれがただの一時の感情整理でしかなくても、感情整理すらできていなかったとしても、それでも書いたことはよかったと思う。そしてもっと饒舌にならなくてはならない。もっと適切な言葉で、自分の気持ちをどうにか伝えないといけない。
と、今はそこまで切羽詰まっているわけではないので、もう少し緩やかに、気ままに自分の速度を大事にしたい気持ちもある。
イベントが苦手だ。好きではあるんだけど。その日だけいつもと違うとか、特別なことをするとか、すこし気恥ずかしい気がして。私の家庭がそもそもそこまでイベントを重視するような家庭じゃなかったからかもしれない。昔から苦手だった気がする。
でも部屋は片付けたよ。捨てるためにリビングに行くのが億劫で、部屋に溜めていた飲み掛けのペットボトルの中身も全部捨てた。汚すぎるね。ジュースとかはほとんど飲まないから、ほぼ缶ボトルのコーヒーと水だけど。部屋も掃除して、物はまだ捨てられていないけど。
なんて、書いている間に年を越してしまった。本当に本当に、自分がまるでダメだと思い知った一年だった。それでも、ほんの少しでも前には進めたような気がする。自信はないけど。
全体を通して辛気が臭すぎるので、もっとどうでもいいことも話したい。ご飯作ったとか、映画見たとか、写真を撮ったとか。言いつつまたひりつくような投稿するかもしれないけど。願望。
あけましておめでとう
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いつものカフェ。あなたに教えてもらった。
他人が私に一体何を期待しているのか。何を求めているのか。
それらが根本的にわからない。だからコミュニケーションも取れない。
不毛な会話。都合のいい存在。始まりも終わりもない関係。
最近のこと
最近の出来事。
ブラックフライデーでケトルを買った。ガラス製で何のためにか通電中底が青く光るやつ。ちなみにハゴオギではない。なぜ水が沸いている最中に青く光るのか分からないけど、いい感じ。
ケトルを買ってから、朝ごはんを食べることも始めた。今まで節約とわざわざ用意するのが面倒で朝ごはんは抜いていた。けど起き抜けにお腹空くなぁと思うことが多かったのと、朝から体温を上げておくために温かい飲み物を飲みたかったので。ケトルを買ったことでわざわざやかんを火にかける手間が無くなったのでインスタントのスープと食パンで、ズボラながら朝ごはんを食べるという習慣を始めかけている。まだ一週間も経ってないが。
朝から温かい飲み物が飲めるということが地味に幸せだ。無印のインスタントのほうじ茶ラテも買ってきた。美味しい。
本を読んでいる。ベルクソンの「道徳と宗教の二つの源泉」(ちくま学芸文庫.2015)
読み始めたのは何故だったかな。大学の講義でたまたま道徳というテーマが被ったこと。
一つは仏文学の一冊から。一つは映画史から、その映画の仮構作用について。
この仮構作用というのが初耳で、なんのことを指しているのかわからなかったのと、虚構の力みたいなのを普段から考えてることで気になった。
道徳の基には神という存在があって(日本人の自分からすると少し実感に事欠けるものがあるが)神という存在を語るために虚構による作話機能が働く。じゃあそれが具体的にどう機能しているのか?どういう仕方で働いているのか?
序盤は脱構築的な話というか、個人の集団により構成される社会において、マジョリティが発生させる責務というのが果たして本当に正しい理に適っているのかというのを解説している。?正直読めているのか定かではないけれど。脱構築的な話ではないかと解釈している。
あとはJ.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」もずっと読みたくてようやく買ったけど積んだまま。
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自分がかなり感情的に物事を理解したりすることがわかってというか再確認でしか無いけど。
「理屈っぽい人」と「感情的な人」という2種類がいるとして、自分の中のバランスを変動させることってできるんだろうか。
つまり、もう少し理屈に寄ったものの考え方をしたいわけなんだけれども。
そもそも理屈とはなんぞや感情とはというところではあるのだけど。その2種類という乱暴極まりない分類の仕方とか
どうでもいいや。
ただ共感性が高いというのは事実。他人と会話する時も、相手の言った言葉そのものではなくて、そこに付随する原因となる感情だとか、それを言われた私と、それを言われた誰かだとかの感情を意識的にでも無意識的にでも読み過ぎて曲解するし疲労する。
だから感情の振り幅が自分と似ていたり、極端じゃ無い人が心地いいのかとか。
近親相姦について
自分のセクシャリティの基に近親相姦欲求というか、欲を基に色々派生している気がしている。近親相姦もののAVで興奮したし、道徳について考えている中で見たのだけど、AVのパケに「非道徳」とコピーされていてめちゃくちゃ笑った。それはそう。
ブログについて
ブログって嫌だなと思って、何が嫌かって、自己完結性なのかなとか。本当に、徹頭徹尾自分のためでしかなくて書いていて息が詰まる。他人のを見ていてもそれは感じる。その人の日常がそこにあるのはとてもいいことだけれど、全てにわたって輪が閉じているような、言葉にするのが難しい微妙な感情を抱く。現時点では感情整理のための自分のためのものでしか無いけれど、いつか外に向かってなにか書けたら、とか思っているのだろうか。本心がわからない。
そんなことどうでもいいのかもしれない。
別離
全ての人間関係が終わり散らかしています。どうもありがとうございました。
きっと今まで私があまり真剣にならずに、人間関係の構築と対話に怠っていたからです。スキルポイント割り振り間違えました。というか、私のスキルポイントがどこに割り振られているのかマジでわからねぇ。
まぁでもなんかここまで来ると、いや崩壊も時間の問題だったなと納得し過ぎてしまって、悲しさも辛さも寂しさもなんか、まともに感じることすらできないというか、それ以前に別離に悲しくなるほどの真剣さ、真摯さがなかったせいなのかもしれない。なんだろうね。
まぁなんとかなるかなともう終わったが拮抗すると虚無が生まれます。
考えるという行為って現代というか私のパーソナリティで結構難しいなと思っていて、注意力が散漫です。それでも最近やっと一つの物事についてちゃんと考える行為が働いているなと思いました。うまくその流れを言葉で説明できないですけど、具体と抽象とか、ある程度自分の中で定義を決めにかかってから疑うとか、そういうこと。それでもまだ難しいですけれども。
もうどうにもならないんじゃなかろうか。次の一手がまるで思いつかない。自分がどうしたいとか特に思いつかない。
こんな誰が見ているのかさえわからないブログでも具体的な出来事を書かないところを見るに、未だ人様に自分自身のことをあけすけと語りたく無い性が出ている。
いつか
妥協しない
誰とも話す事ができなくなって、ブログを始めて、一人でここに書き込んでいる。
私が期待する私になんか絶対に追いつくことはできない。
男だから、東京だから、だから
どうでもよくて
私は私になにを求めているんだ?なにを望んでいるんだ?
わけもわからず傷つくだけのあの愛しい時間が、そんなに苦しかったんだろうか。
苦しかった。
話しても、話せないことばっかり。わからないことばっかり。
期待して、何かを重ねて、見惚れて、望んで、失望して、
素直に自分の思ったことを言える人間と言えない人間がいて、
言えない人間は弱いのだろうか。努力不足なんだろうか。
わからない。強弱の話じゃないし、ただの憐憫でしかない。そうじゃなくて、
もっと根本的なことが知りたい。
言わない事が人を傷つけるだなんて
最強に生きている。身体は死んでいるけれど、精神は超生きている。毎日絶望を噛み潰して、呑まれまくっているけれど。でも生きるって事がこんなに辛いことなんて、今までの人生で初めてだ。それこそ、0歳児かのような、
生きる屍というのは、これよりもっと酷いもんなんだろう。なんの目的もなく、妥協して、日々をやり過ごす。それに比べたら今の私は妥協一つしていない。どこか気に入らなかった愛すべき日々を捨てて引きこもりに成り果てたが、それ故に、自分がいないまま生き続けるよりも、自分以外の全ての時間を止めて自分を、妥協しないが故に全てが死んだとしても
単純な利己主義である。こんなにも利己主義であったことがいままでにあるだろうか。自分のことしか考えていない正真正銘のクズだ。クズに成り果てた、というよりもうちに眠るクズが露呈しただけのことだ。死んだ方がマシである。
全ての迷惑を提げて、
708文字は恥だ。このすべてが恥でしかない。今までかけた迷惑と今まさに欠けている思いやりと、その全てで今の私が作られている。
情けない。たかが気づいただけでこんなにも陶酔的な文章が書けるなんて。特別なんかじゃない。
くだらないよ。よくこんな文章書けたもんだよ。これの繰り返しだ。永遠と。書いては否定し書いては否定し。自分というものの価値を見定めるんだ。今度こそ。これに失敗したら、もういよいよ首をくくるしかない。
失敗か成功かなんてどうでもいい。どうせ人生は
きっと、他人から見たらひどく青臭いもんだろう。書いている本人ですら青臭過ぎてヒリヒリしてくる。自分とか、他人とか、いちいち考えなくて済むのが大人になるってことなんでしょう?だから私は早く大人になりたい。早く大人にならないと、もう誰とも関わる事ができない。誰とも話す資格がなくなってしまう。
肥大化し過ぎた自尊心と自意識とを早くどうにか
どうにか
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一つ一つ整理する事ができないから今こうなっているんですが、どなたか整理する方法について教えてくださる方はいらっしゃいますか?私は一体なんのために一日を無駄にし続けるのでしょうか。
私が今見ている私を取り巻く世界はひどく複雑になり過ぎていて、それをシンプルにしたいがために今こうして部屋に引きこもっているのに、手順が明らかに違いますよね。より複雑が複雑になるだけなのですが、どうしたら良いのでしょうか。
将来への焦燥感と進まない身体と整理のつかない頭と意識を持ち、自分とは個別に動き続ける他人と減り続けるお金と作れない物と、
締め切りが迫ってナーバスになるのもういい加減やめたい。
今最優先事項がわからない。なぜなら全てが最優先事項だから。
どこに順位をつけろと
自分の気持ち感情決意意志
全体を見通す力があまりにもなさすぎる。見渡す力があまりにもなさすぎる。