呟く

文章が書ける時と書けない時。ここ一ヶ月ほど、ひきこもりに近い生活をしている。

人間関係や、その他諸々の挫折という原因はあったにせよ、もう初心はわからない。

だからひきこもる理由もなければ外に出る理由もない。ただ人生を使い潰し、全ては怠く、まったくもって無生産的である。それでもブログを始めたのは、まぁなんか色々あったんだろう。

ツイッターやインスタグラムに逐一自分の生活を晒すことが分からなかった。今日食べたご飯今日見た映画今日読んだ本今日遊んだゲーム、今日会った友人。今日行った場所。

それにどれくらいの承認欲求があってないのか、知らないけれど。呟きという行為がもう生活と切り離せないツイ廃はともかく。

少なからず、客観性をもって他人に自分というものを紹介する意図はあるんだろうか。

私はそれが苦手で、呟くときには必ず考えなくてはならない通るべき道で、見られているという自意識が過剰なんだろうけど、そんなことを思っていたら日常の通り過ぎていく事象があまりにも膨大で過剰で反応しきれずに手付かずになってしまった。

内向的な感情世界をもとに思索している節は思い当たるので、外からの刺激に鈍い部分は否定する事ができない。外でなにが起きていようが、自分の内側で起きている乱気流を捉えるのに一杯一杯だ。

これの弊害が挙げられるとすれば、なに一つ地に足つかないというところか。自分の感情なんて1分でも1時間でも変化し続けるのに、果たしてそんなものが捉えられるのか、捉えられたとて、もう次の瞬間にはいなくなっているものを。

だから必要なことは実生活に楔を打ち込んでいくことなんじゃないかと思う。一つ一つ起きたことに点を打っていく。自分の内的世界と違って、外の世界で起きたことは事実として少なくとも固定される。固定された木にしがみついて、なにが起きたのか、自分がどこにいたのか確認することが、一つの術なのではないだろうか。呟くとかブログを書くとか。

 

そこで変に他人を意識して内なる承認欲求を変な形で出す必要はなくて、あくまで自分のためにただ淡々と楔を打っていけばいいのだと思う。実生活がインターネット空間と同調することが過剰になりすぎるのも問題だが、今現代においてそれが切り離されすぎるのも一種の過剰さだと思う。特に私のような内向的な人間にとっては。実生活でなにが起きたのか理解するためのツールとしてSNSやブログは文明の利器だと思う。

ということを考えましたということです。